円道寺は、今から400年あまり前に開創されました。
開創時は「猿道寺」でしたが、「地蔵堂」→「庚申堂」と変わり、昭和17年に「庚申山円道寺」という現在の名前となりました。旧字体では「圓道寺」と書きます。
宗派は、曹洞宗です。
円道寺の宗派は、曹洞(そうとう)宗です。
お釈迦様の教えはインドから中国へと承け継がれました。そして鎌倉時代に道元禅師(どうげんぜんじ)さまによって日本へ伝えられ、さらに瑩山禅師(けいざんぜんじ)さまがその教えを日本全国に広める基礎を作られました。
曹洞宗では、お釈迦様とこのお二方を併せ、「一佛両祖」として仰ぎ尊んでおります。
また、道元禅師さまが開かれた永平寺(えいへいじ・福井県)と、瑩山禅師さまが開かれた総持寺(そうじじ・横浜市)を両本山としています。
曹洞宗公式ホームページ・曹洞禅ネット
両大本山(曹洞禅ネット)
総持寺公式ホームページ
円道寺のご本尊は、青面金剛明王(しょうめんこんごうみょうおう)です。
一般的には「庚申(こうしん)さま」と呼ばれています。
くわしくは
「円道寺のほとけさま」の項をご覧ください。
今から約400年前の天正年間(1573〜1592)に、瑞泉寺(ずいせんじ・名古屋市緑区相原町)第11世「仁甫良義(にんぽりょうぎ)和尚」によって「猿堂寺」という名で開かれました(江戸期の書物「尾張志」では円道寺となっています)。
天正年間とは、織田信長が勢力を増すころから、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるまでの時代です。
円道寺のある場所は、鳴海砦(鳴海城)の端になります。この砦は、桶狭間の合戦後、廃城となったので、その一画にお寺を造ることになったとも考えられます。
鳴海砦/近江の城郭愛知編
宝暦7年(1757)、猿堂寺は、現在の有松町字往還に移り、残された寺は「地蔵堂」と称されるようになります。 (有松に移った「猿堂寺」は、後に「祇園寺」と改められます)
このいきさつについては詳しい資料がないため不明ですが、円道寺の本寺である瑞泉寺の当時の住職は、 100年の偉業を1世で完成したといわれる名僧「呑舟透鱗(どんしゅうとうりん)大和尚」であり、 その事業の一環として移転が行われたものと思われます。
さらに安永3年(1774)に、「地蔵堂」という名称が、南区鳴尾のお堂に移り、残された寺は「庚申堂」に改名されます。
江戸期の鳴海は宿場町として栄え、宿のほか、多くの店が並び大変に賑やかだったそうです。 その一画に位置した「庚申堂」は、街の人々、旅人に広く信仰されていたと伝えられています。
昭和3年頃、当時の名古屋鉄道によって、道路の拡幅工事や土地区画整備が行われ、これに伴い円道寺の土塀や山門が整備されました。
また昭和17年(1942)には、名称が現在の「庚申山円道寺」となりました。
太平洋戦争中の昭和19年に空襲を受け、本堂・庫裏・書院が半壊しましたが、多くの方の尽力により、約5年をかけて修繕されました。
平成になり、都市計画に伴い再度の道路拡張が行われたため、建物が全面的に改築され、現在の形になりました。
太祖常済大師瑩山紹瑾大和尚(1268〜1325年)は、曹洞宗の日本全国に広めた方で、道元禅師から数えて、第4世あたります。
一般には、「瑩山禅師」と呼ばれていますが、曹洞宗では太祖または、太祖常済大師と尊称されています。
曹洞宗は、出家主義で、入門したい場合は、頭を丸めお寺に入らなければならない宗派でしたが、瑩山禅師はそれだけではなく加持、祈祷、祭礼などを行い、下級武士や商人、女性にも禅の教えを広めました。
また、たくさんの優秀な弟子を輩出し、その弟子達が全国に曹洞宗寺院を多数作り、現在の曹洞宗の礎を築きました。
この功績により、曹洞宗では、道元禅師と瑩山禅師を両祖として尊崇しています。
円道寺の本寺である瑞泉寺は、この瑩山禅師の7代後の、「大徹宗令(だいてつそうりょう)禅師」がお開きになりました。
この像は、本堂の奧にある開山堂に安置されています。
一般にも馴染みのある「ダルマさん」が、この菩提達磨大和尚(5世紀後半〜6世紀前半)です。
インドで生まれ、仏法の全てを会得したのち、布教のために中国へやってきました。
中国には、すでに仏教が伝わっていましたが、達磨が伝えたのは、坐禅を中心とした修行を行う「禅宗」といわれる教えで、それが広がり、多くの弟子が生まれ、代々受け継がれていきました。
やがて中国禅宗五家といわれる宗派ができ、その一つ「中国曹洞宗」の教えが永平道元禅師によって日本に伝えられ、現在の「日本曹洞宗」になりました。
曹洞宗では、菩提達磨大和尚を「祖師(そし)」と呼び、多くの寺院で、本尊に次ぐ扱いでお祀りしています。
よく見かける置物のダルマは、菩提達磨大和尚が坐禅する姿がモデルになっています。(伝説では9年坐禅し続けたそうです!)